縄文文化(新石器時代~紀元前3世紀頃まで)

石の矢じりを使った猪や魚などの狩猟と、木の実や貝の採集が生活の中心でした。人々は集団で力をあわせて働き、収穫はみんなで公平に分け合い、集落単位の自給自足生活をしていました。
 
近くに湧き水のある大地に、地面を少し掘りくぼめて、その上に草葺の屋根を作った竪穴式住居に住み、数軒の家が集まって集落をつくっていました。

表面に植物の繊維をより合わせた縄を転がしてつけた模様がさかんにつけられた縄文式土器(新潟県から出土した紀元前3500年から紀元前500年のもの)は、低温で焼いた厚手の黒褐色のもろいもので、形はさまざまです。

採集生活は自然条件に左右されることが大きく不安定であったため、人々はあらゆる自然現象を深く恐れ、敬っていました。縄文後期には、女性を模った土偶(中部地方の紀元前2500年ごろのものと、東北地方の紀元前1000年ごろのもの)が多く作られましたが、災いをさけるための呪術的な風習だったと考えられます。

縄文時代の社会に貧富や階級の差がなかったことは、当時の住居の規模や構造に大きな差のないことや、埋葬が共同墓地〈貝塚)で行われたことからもわかります。

弥生文化(紀元前3世紀頃~紀元3世紀)

はもともと東南アジアでとれたものですが、日本へは紀元前2世紀ごろ朝鮮南部から九州北部に伝わりました。弥生時代には近畿地方から、関東地方、東北地方まで広まりました。日本全土が農耕社会になり、計画的に食料を生産するようになりました。穀物は高床式の倉庫貯蔵穴に保管されました。治水、灌漑など集落による共同作業も発達します。集落内に貧富の差が生じ、集団内の生産の指導や他集団との交渉などをする首長が現れ、有力集団の首長は支配者としての性格を強めていきました。

このころ青銅器鉄器が同時に伝わりました。鉄器は実用に使われ、農具や工具が木製・石製から鉄製へと変化します。青銅器は主に実力者の権威をあらわすもの、祭器や装身具として使われました。北九州を中心に銅剣と銅鉾(紀元前100年ころのもの)近畿を中心に銅鐸(紀元前200年ごろのものと、紀元20年ころのもの)が作られました。

弥生式土器(愛知県から出土した、紀元前100年ごろのものと、起源250年ころのもの)は高温で焼き上げた薄手で赤褐色の硬い土器です。模様も簡単になり、素朴な感じですが、ろくろを使うようになったので、形も整い、たくさん作られるようになりました。石製紡錘車や木製の織機を使って原始的な織物が発達しました。

西暦57年に「倭」の国王の使者が後漢の首都洛陽に派遣され、光武帝より金印を賜っています。つまり九州北部の有力者が中国と直接交渉を持ち、外交的に認知されていたことが分かります。古代の中国人は日本のことを「倭」と呼んでいましたが、「倭」という字は「わ」という発音から中国人が探し出した字で、実際はサークルの意味の「輪」または「環」から発生した「和」のことだったんじゃないでしょうか。後の日本人は自分たちのことを「大和」と呼んでいます。「邪馬台国」というのも、日本人が「ヤマト」と呼んでいた国の、中国側当て字だったのではないでしょうか?

西暦239年には邪馬台国の女王卑弥呼が魏の首都洛陽の明帝に使者を派遣し、奴隷と布を献じ、そのお返しに「親魏倭王」の称号と金印・銅鏡・絹織物を受け取っています。邪馬台国の女王「ヒミコ」というのも、本当は「日神子」または「日御子」または「日巫女」であり、つまり太陽に使える女性という意味だったのではないでしょうか。のちの大和朝廷の時代に作られた神話の中に、天皇家の祖先として出てくる天照大神の話がありますが、モデルは卑弥呼だったと言われています。西暦248年9月5日に皆既日食がありました。これが「天の岩戸隠れ」じゃないかと言われています。太陽に使える巫女にとって、太陽が隠れてしまったことは大変な問題です。それで、責任を取らされて殺されたのか・・・日本一の勢力を誇った女王卑弥呼は、ちょうどそのころ歴史から消えています。

まだ、このころの日本には文字はなく、日本側の記録がないため、この時代の日本史は中国の歴史書を基に作られています。卑弥呼が消えたころ中国は戦国時代に入り、その後約150年間、日本に関する記録が中国の歴史書から姿を消しますが、日本ではその間に大和朝廷による統一が進められていました。

古墳文化(4世紀~6世紀)

3世紀後半から、各地の豪族は大きな墓を作るようになりました。現在古墳とよばれる墓は、はじめは自然の小さな丘を利用していましたが、後には平野に土を盛り上げ、人工の大きな塚を作らせました。棺(大阪の石棺)や副葬品(鉄製武器や工具、鏡(西暦100年から500年)玉など)を収めるところは大きな石で囲われ、その石室を覆うように土を盛り上げていきました。古墳の周りには、赤褐色をした埴輪(人間の形をした素焼きの土器)(西暦500年ごろ、武人、猪、女頭など)が埋められています。埴輪にはいろいろな職業の人間・動物・家・船などいろいろな形があり、古墳時代の人々の生活が分かります。

4世紀前半には奈良盆地を中心におこった大和朝廷によって、西は九州北部から、東は中部地方におよぶ地域が統一されました。大和朝廷の首長は最大の王として大王(おおきみ)と呼ばれていました。

大和朝廷を中心につくられた前方後円墳の大きさは長さ100メートルを超えるものが多く、仁徳陵は世界最大規模で、総面積約153万平方メートル、長さ480m、幅305m、高さ35m、一日に1000人動員しても、4年かかったと推測されています。古墳文化は大和朝廷の進出とともに地方にも急速に広まり、5世紀には、北は東北地方南部から、南は九州南部までに及びましたが、6世紀から7世紀になると、規模がずっと小さくなり、円墳が多くなります。

4世紀後半から5世紀初めにかけて、朝鮮半島に進出し、半島南部の任那を勢力下に収めました。

5世紀になると帰化人も多くなり、機織、金属工芸、土木建築など多くの新技術が伝えられ、各種の産業の発展に貢献しました。支配者の間に漢字の使用が始まりましたが、朝廷の記録・出納・外交文書の作成に当たったのは帰化人でした。

6世紀になると、百済から仏教が伝来されます。医学、易学、暦などもこのころ伝わりました。農耕社会の成立によって、自然神や祖先のための社(天照大神を奉る伊勢神宮、大国主神を奉る出雲大社など)がつくられました。

飛鳥文化(6世紀後半~7世紀初め)

西暦592年に聖徳太子が推古天皇の摂政となったころから、中央集権の国家体制の確立が進みました。大王は天皇と呼ばれるようになります。聖徳太子は603年に冠位十二階を定め、氏族によらず本当に才能のある人を引きたてるようにしました。604年には十七条の憲法を定め、豪族たちに国家の官吏としての心構えや、仏教を敬うこと、天皇に服従することなどを説きました。

6世紀末、飛鳥地方〈奈良県)に日本で最初の仏教を中心とした文化が生まれました。聖徳太子が建てた、法隆寺(世界最古の木造建築物)が代表的建築です。瓦葺の五重塔(一般人はまだ、竪穴住居に住んでいる時代です!)や、金銅で作られた仏像(埴輪の時代からいきなりです!)に、当時の人々がどれだけ驚いたことでしょう。これらの建物や仏像をつくる技術は、もちろん中国から伝わったもので、帰化人が中心になって造りました。

百済観音像は法隆寺の国宝のコピーで、1930年に大英博物館のために作られました。長身のすらりとした姿は、中国の南北朝時代の影響を受けたものと思われます。

607年には小野妹子遣隋使として送っていますが、中国の王朝に対して対等な立場を主張しています。聖徳太子が、小野妹子に持たせた国書の書き出しには「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子にいたす。つつがなきや。(太陽が昇る国の天子から、日が沈む国の天子に手紙を送ります。かわりありませんか。)」と書いてありました。文化レベルも、国のサイズもまったく違う国に送る外交文書にしては、ちょっと失礼な文面だと思いますが・・・。

白鳳文化(7世紀後半)

中国では、隋が滅び、唐の時代になりましたが、日本からは続いて使いを派遣していました。遣唐使と一緒にたくさんの留学生たちが進んだ学問や技術を学ぶために唐に渡りました。7世紀になると唐で勉強した留学生たちが帰ってきました。唐の進んだ政治や経済の仕組みを聞いて、日本も氏族同士が争っていてはいけないと考える人が出てきました。

西暦645年に蘇我氏を滅ぼした中大兄皇子による大化の改新で、唐を模範とする中央集権政治への方向がはっきりと打ち出されました。中大兄皇子は内政に力をそそぎ、のちに天智天皇になります。

天智天皇が亡くなると、弟の大海人皇子が天武天皇になり、そのあと皇后が持統天皇として即位しました。地方には国司という役人を派遣して治めさせ、670年には戸籍がつくられました。701年には大宝律令という政治のよりどころになる法律も完成しました。天武・持統天皇の時代の文化を白鳳文化と言います。代表的建築物は、天武天皇の願いで建てられた薬師寺の三重塔です。インドや中国の様式を取り入れたスケールが大きなの壁画があらわれます。

宮廷では漢詩文をつくることが盛んに行われました。柿本人麻呂額田王らの歌人が長歌・短歌の作品を残しています。

天平文化(8世紀)

710年、元明天皇が都を奈良に移しました。新しい都は、唐の長安のように、街の北側に天皇の住む内裏(宮殿)と政府の建物を置き、その南に碁盤の目のような街路を造り、平城京と呼ばれました。

そのころのことは「あおによし 奈良の都は 咲く花の におうがごとく 今さかりなり」と万葉集に歌われています。万葉集は4500首の歌を集めた一大歌集で、歌人の作品ばかりではなく、地方の農民の素朴な感情を表した歌も多く納められています。万葉がな(漢字の音訓の組み合わせ)が用いられているのも特徴です。

国家の発展に伴って、朝廷がこの国を支配する由来を説くとともに、国の歩みを記すことを目的とした国史の編纂が行われるようになり、古事記〈712年)や日本書紀〈720年)が完成しています。

貴族は教養として、漢詩文を作ることを重んじられていました。751年には懐風藻という漢詩集がつくられました。

遣唐使によって唐の文化が伝えられ、当時の貴族たちは唐の進んだ文化を身につけることに大きな熱意を持っていました。奈良時代の文化は聖武天皇の時代(天平)に最も栄えたので天平文化と呼ばれています。唐の影響を強く受けた、仏教を中心とした文化で、華やいだものでした。

聖武天皇は、政治・社会の動揺を仏教の力によって鎮めようとして国分寺・東大寺を建立しました。校倉造りの正倉院(東大寺の蔵)には聖武天皇が使った品物、美術品、織物、楽器、家具、食器などが残されています。その中にはインド・イスラム・東ローマなどの流れをくむものも含まれています。

752年に完成した東大寺の大仏は高さが16mもあります。仏像は金銅像のほかに、塑像(木を芯にしてその上を粘土で固めたもの)や、乾漆像(粘土や木で大体の形をつくりその上に麻布をはって漆で塗りかためたもので、芯を抜くものもある)の技法が発達し、白鳳彫刻と比べて人間的・写実的な表現が見られるようになりました。

大英博物館には、その時代の伎楽の面があります。


国風文化(10世紀~11世紀)

794年、桓武天皇は政治をあらためるため、都を京都に移しました。長く平和で安らかであるようにという意味で、平安京と呼ばれました。平安京も唐の都の長安を真似て造られましたが、平城京よりも広く、東西約4.5km、南北約5.2kmもあり、都の中央には幅85メートルの大路が走り、その東を左京、西を右京と呼びました。

894年菅原道真の意見で遣唐使が廃止されました。中国文化を輸入していたのをとりやめ、日本風の文化をつくっていきました。これを国風文化といいます。

仏教は浄土教が流行して、美術の文化にも関係した作品が多く造られました。藤原道長が建てた法成寺藤原清衡が建てた中尊寺は阿弥陀堂を中心としたものです。仏像寄木造り手法を完成し(900年から1000年ごろの吉祥天立像)仏像の大量の需要を満たしました。迎図(仏が来臨することを示した絵)も盛んに描かれました。

貴族は寝殿造り屋敷に住んでいました。南向きの寝殿=正殿を中心に東西に対屋を設けて廊下でつなぎ、庭園には池や中島がありました。貴族たちは、池に龍や鳥の頭の飾りをつけた船を浮かべて、雅楽を聞いたり、和歌を詠んだりして遊びました。藤原頼通が建てた宇治平等院鳳凰堂が代表的な建物です。

建物の内部の襖や屏風にはこれまでの唐絵に代わって日本の風物を題材とし、なだらかな線と、美しい彩色を持つ大和絵が描かれました。屋内の調度品にも、日本独自の発展を遂げた蒔絵(漆器に漆で文様を描き、それに金銀などの金属粉を巻きつけて模様とする技法(1500年代の硯箱)が多く用いられました。書道も和様が発達しました。

万葉がなの草書体を簡略化したひらがなや、漢字の字形の一部分を取ったカタカナが表音文字として生まれました。かなの発達によって、日本語をそのまま表すことが容易になり、日本人の感覚を生き生きと伝えることができるようになりました。
 
和歌という日本独自の文学がさかんになり、10世紀初めには最初の勅撰和歌集である古今和歌集が紀貫之らによって編纂されました。

かなの物語としては、竹取物語、伊勢物語(住吉如慶筆による写しがあります)、宇津保物語、落窪物語、源氏物語(紫式部)(土佐光吉筆による「空蝉」の写しがあります)があり、かなの日記・随筆としては、枕草子(清少納言)、土佐日記(紀貫之)、更科日記(菅原孝標の女)、蜻蛉日記(藤原道綱の母)、和泉式部日記〈和泉式部)、紫式部日記(紫式部)があります。

11世紀の初め、一条天皇の后を中心に女性の文学者が活躍しましたが、これは藤原一族が皇后となった自分の娘に優秀な女性たちを仕えさせたからです。藤原道隆の娘・皇后定子には清少納言、藤原道長の娘・皇后彰子には紫式部が仕えました。紫式部はこのころ宮中に仕える人々をモデルにして「源氏物語」を書いていますが、藤原道長が光源氏のモデルだったのではないかと言われています。また、紫式部は日記も書いており、そのころ実際に宮中で起こったことを知ることができます。その後、道長が藤原氏の実力者となり、1018年には公卿23人のうち19人が藤原氏で占めていました。道長は「比の世をば我が世とぞ思ふ望月の かけたることも無しと思えば」(この世界は、満月が少しも欠けていないのと同じように、全部自分のものと思われる)と誇らしげに和歌に詠んでいます。

平安後期には絵巻物(絵と詞書とをおりまぜて物語の進行する)が発展しました。源氏物語絵巻、伴大納言絵詞、鳥獣戯画などが有名です。

地方では農村を支配した武士がしだいに成長して、平将門のように貴族に反抗するものが出現しました。12世紀になると、内輪揉めを起こした藤原氏は、源氏と平氏の武士を使って保元の乱を起こしました。武士の力はより強くなり、今度は源氏と平氏が勢力争いをして、平治の乱をおこします。

平清盛
は源氏を倒して、貴族の仲間入りをして政治を行うようになりましたが、平氏一門が中心だったため、貴族からも地方武士からも反対されるようになりました。伊豆に流されていた源頼朝は、関東の武士を率いて、富士川、一の谷、屋島と平氏を打ち破り、1185年壇ノ浦の戦いで平氏は滅びてしまいます。

鎌倉文化(13世紀~14世紀)

1192年、源頼朝は征夷大将軍に任ぜられて、鎌倉幕府を開いて政治を行いました。頼朝の家来になった武士は御家人と呼ばれ、御家人は領地を認められ、手柄があれば新しい領地を与えられました。御家人はそれに対して頼朝と幕府のためにつくす義務がありました。幕府には、武士を取り締まる侍所、一般の政治をとる政所、裁判を行う問注所がありました。地方には国ごとに守護、荘園に地頭を置いて、御家人を任じました。

頼朝の後、長男の頼家が将軍になりましたが、祖父の北条時政によって殺されてしまいます。次に頼家の弟・実朝が将軍になりましたが、頼家の長男で甥の公暁に殺されてしまいます。源氏は頼朝からたった三代で終わってしまいました。京都の貴族たちは、後鳥羽上皇を中心に、幕府を倒そうとしましたが、このころすでに北条氏は将軍を補佐する執権という役について幕府の実験を握っており、京都に攻めのぼった幕府軍が勝利をおさめました〈承久の乱)。幕府は、貴族の荘園3000箇所を取り上げて、武士に分け与えました。京都内外の警備や、朝廷の監視を任務とする六波羅探題を置き、北条一族の間で世襲されました。北条泰時は御成敗式目という武士の法律をつくり、武士による政治を強めました。

13世紀、チンギス・ハンの孫のフビライが中国を統一し、都を大都(北京)に移して、国号を元としました。高麗を服属させた後、日本にも元に従うよう要求してきました。そのときの執権は八代目北条時宗でした。

歴史の教科書には「時宗はこれを退けた」とか「はっきりと断りました」とか書いてありますが、これは違うんじゃないかと思います。今も昔も日本にこんなにはっきりと意見を言える政治家はいません。まず、元からの使者は、日本で一番偉い人が誰なのかが分かりません。天皇やお飾りの将軍が京都にいますが、実権は鎌倉の北条氏が握っています。しかし長い間外国と国交がなかった日本に、外交問題など分かる人はなく、若い北条時宗は、博多の商人の意見を聞いたり、京都に根回ししたりしているうちに、時間切れになってしまったのではないでしょうか。

1274年と1281年の2回にわたって元軍が攻めてきました。日本軍は苦戦しますが、元が海戦になれてなかったのと、2回ともちょうど台風が来たので元軍を撃退することができました。 しかし、この戦いのころから、幕府の経済は弱まり、社会も乱れてきて、幕府に従わない武士も出てきました。14世紀になって、武家政治に反対する後醍醐天皇は、幕府に従わない武士を見方にして、1333年に鎌倉幕府を倒しました。

鎌倉文化の特色は貴族の文化が武士および庶民の手に解放されたことです。軍記物は当時の戦乱を題材とし、実在の武士を主人公としてその活動を生き生きと写しています。中でも平家物語は琵琶法師によって語られることを考えて作られた作品で、文字を読める一部の人だけでなく、広く民衆を招集者に予想しており、多くの人々に親しまれました。他に保元物語、平治物語、源平盛衰などがあります。

随筆も公家や僧侶の手によって書かれ、方丈記(鴨長明)、徒然草(吉田兼好)のような名作があります。

絵巻物(物語絵)は、物語の挿絵として成立し、寺社の縁起、高僧の伝記、戦乱などを題材としました。
公家や武士や僧侶の肖像画(似絵)も盛んに描かれました。

工芸では、明珍甲冑、刀剣粟田口吉光〈京都)、岡崎正宗(鎌倉)、長船長光(備前)が知られています。刀は備中の末行(12世紀末から13世紀はじめ)、1521年の備前の祐定、国光の短刀など。

陶芸では、加藤影雅が宗から新しい製陶法を伝え、瀬戸焼(1400年代の天目茶碗)の基をひらきました。

北山文化(14世紀)

1333年に鎌倉幕府が滅びた後、後醍醐天皇は天皇中心の公家政治に戻そうとしましたが、源氏の血を引く足利尊氏は天皇に反対で、京都に室町幕府をつくり、自分の家来を守護に任命して武家政治を始めました。天皇は尊氏と戦い、敗れて吉野〈奈良県)に移りましたので、尊氏は京都に光明天皇を立てました。吉野の朝廷を南朝、京都の朝廷を北朝と呼び、南北朝の対立が始まりました。

全国の武士がこの乱に巻き込まれ、南北朝のどちらかに従って戦ったので戦乱は長引き、1392年、60年ぶりに、三代将軍足利義満が朝廷を一つにまとめました。義満は太政大臣になって公武の権力を合わせ持ち、日本を統一しました。義満が京都の室町に邸宅を造って、政治を行っていたので、のちにこの時代を室町時代と呼ぶようになりました。

ちょうど室町幕府が始まったころ、朝鮮半島でも高麗が滅び、李氏朝鮮時代が始まりますが、高麗が倒れた原因の一つに倭寇(日本の海賊)の被害が大きかったことがあげられています。また、新しく政府を開いた李成桂が倭寇を撃退して名声を得た武将だったことなどから、朝鮮の歴史に日本が〈悪者として)深くかかわっていることが分かります。

1395年義満は出家しましたが、政治の実権はそのまま握っていました。今度は京都北山に豪華な別荘を造りました。寝殿造書院造を合わせ周囲に金箔を張りめぐらしたので金閣と呼ばれました。

は謡・舞・囃子からなる演劇で、寺社の保護から離れ、武士の援助のもとに発展します。観世座の観阿弥・世阿弥はたくさんの謡曲(脚本)を作りました。狂言は能の合間に演ぜられた喜劇で、能に比べたら通俗的で、庶民に愛好されました。

文学では南北朝60年間の動きを巧みに描いた軍記物の太平記が有名です。また、御伽草子はたくさんの人々に愛好された短編の読み物で、僧侶・武士・庶民や擬人化した動植物が主人公となり、庶民の夢を描きました。連歌(一首の和歌を二人で上の句と下の句を読みあう)は、南北朝時代から流行していましたが、室町時代に優れた歌集が現れます。

東山文化(15世紀半ば)

義満の孫の、八代将軍善政は、なかなか男の子が産まれなかったので、弟で出家した義視に将軍の位を譲ることを約束しました。ところが、妻の日野富子に義尚が産まれたため、富子は自分の子を将軍にしようとして山名宗全を味方につけました。善視の方は細川勝元に助けを求めました。これをきっかけに応仁の乱と呼ばれる戦いが11年も続いたので、京都の街中の寺、神社、御所、貴族の屋敷など、ほとんどが焼けてしまいました。

応仁の乱の間、善政や貴族たちは戦乱を避けて、山荘などで茶や能を楽しんでいました。すさんだ世の中から逃げようとする人に歓迎され、東山文化へと発展します。

乱の後、善政は京都東山に別荘を建てました。その二層の建物は銀閣と呼ばれ、善政はそこで政治を離れた生活をしたいと思いました。水を用いないで流水の有様を現した枯山水は当時の独特なものでした。心の静かさを求める茶道が生まれ、村田珠光によって侘び茶の方式がつくられました。絵も墨の濃い薄いだけで描く、水墨画が発達しました。雪舟(1467年の山水画)が活躍しました。狩野正信・元信によって水墨画に大和絵の技法をとり入れた、狩野派をおこしました。

応仁の乱が終わっても、戦乱は地方に広まり、力の強いものが国を治めようとし、15世紀末から約100年間、日本は戦国時代になります。

桃山文化(16世紀末)

1543年、九州の種子島ポルトガルから来た船が流れ着きました。領主の種子島時尭はポルトガル人から鉄砲を買いました。ちょうど日本は戦国時代だったので、この鉄砲はたちまち日本中に伝わり、種子島銃と呼ばれました。のちに、堺〈大阪)でも鉄砲を作るようになります。

1549年、キリスト教イエズス会宣教師フランシスコ・ザビエルが鹿児島へ来て、日本に始めてキリスト教を伝えました。ザビエルは平戸(長崎県)、島原(長崎県)から京都まで伝道しました。南蛮人はガラス製品や、珍しい織物〈ビロード)などいろいろなものを運んできました。学問では天文学・医学・地理学などの実用的なものが、美術では西洋画の影響を受けた南蛮屏風油絵・彫刻の技法がもたらされました。また、活字印刷機が伝わり、日本の古典などを印刷刊行しました。

茶道は、戦乱の京都を避けて堺で発達し、武野紹鷗や今井宗久らを経て、千利休が完成させました。これらの人たちはみんな堺の商人でした。茶室(裏千家lの茶室茶器(尾戸焼の茶碗、美濃焼の茶入、唐津焼の水差、伊賀焼の水差し)・庭園などもそれに応じて作られるようになりました。

1582年、本能寺の変で織田信長が死ぬと、明智光秀を滅ぼし、柴田勝家と争って勝った豊臣秀吉が信長の後継者となり、日本の統一を成し遂げました。秀吉の時代に豪華雄大な文化が生まれましたが、秀吉が京都の南の伏見桃山に伏見城を建てたので桃山文化と呼ばれ、大名や大商人の間に広まり、絵や彫刻が発達しました。

桃山時代を象徴する建築は城郭で、山城とは違って、交通の便利な平地に天守閣のある本丸をはじめ、堀で囲まれたいくつかの郭からなっています。(大阪城、伏見城、姫路城、二条城)。庶民の家も、このころから、二階建て、瓦屋根の家が出てきました。彫刻では仏像彫刻が衰えて、住宅の欄間などを飾る彫刻が盛んになりました。

絵画では、襖や屏風などに、金地に豊富な色彩を用い強い色彩効果をつかった狩野派(狩野永徳・狩野山楽)を中心に、海北友松や長谷川等伯が有名です。工芸でも豪華な装飾的なものが多く、蒔絵の家具調度などに華やかな時代の特徴が出ています。

朝鮮出兵で諸大名が朝鮮の陶工を連れて帰ってきたため(大英博物館4階のKorean Galleryでは「捕虜」という言葉を使っていますが・・・)有田(鍋島)(肥前焼が数点)、薩摩(島津)(1850年の徳川の紋がはいった薩摩焼の茶壷と食器)、萩〈毛利)、平戸(松浦)、高取〈黒田)など、日本の陶磁器が発展します。

芸能では、出雲の阿国による歌舞伎、琉球から渡来した三味線の伴奏に合わせて人形を操る人形浄瑠璃が流行しました。

元禄文化(17世紀末~18世紀初め)

1600年、関が原の戦いで天下を握った徳川家康江戸幕府を開きました。全国に大名を置き、士農工商の身分をさだめ、鎖国をして、強い武家政治を行いました。国内の戦いはすっかりなくなり、平和になった江戸時代は産業が発達し、生産が増えたので、大名の城下町を中心に商業が発達しました。元禄文化は京都・大坂を中心とした上方の大商人を中心に、貴族や武士とは違う、華やかな町人文化です。

桃山様式を受け継いだ日光東照宮、茶の湯の発達の結果、書院造りと草案風の茶室を折衷した数奇屋造(桂離宮)は代表的な建築物です。

文学では松尾芭蕉の俳文(奥の細道など)、井原西鶴の小説(好色一代男など)、近松門左衛門の脚本(曽根崎心中など)が有名です。演劇では浄瑠璃や歌舞伎が発達し、上方・江戸には常設の劇場も生まれました。

絵画では尾形光琳、俵屋宗達、狩野探幽が有名です(1782年の丸山おきょうの虎の子渡し図屏風)染物では京都の宮崎友禅友禅染をはじめ、綸子ちりめんの生地に華やかな模様をあらわして流行しました。

陶器は有田焼の酒井田柿右衛門(1660年代の色絵象置物)が上絵付けの方法を研究・成功し、京都では野々村仁清が上絵付け法をもとに色絵を完成して京焼(1700年代の茶碗)の祖といわれ、楽焼では本阿弥光悦が気品高い作品を作りました。

化政文化(19世紀初め)

江戸の町も町人の活動が活発になり、文化の中心も上方から江戸に移ってきました。都市生活の多様化で、文化の内容も多種多様のものとなっていきました。通俗的となり、退廃・低俗化の動きもありますが、町人を中心とした文化は都市庶民の間に広がり、さらに農村へも普及していきました。

町人の風俗を描いた浮世絵がさかんになり、木版技術の進歩で、版画として優れたものが生まれました。18世紀半ばに鈴木春信錦絵と呼ばれる色刷版画(1760年、水辺款冬)を創始しました。喜多川歌麿美人画(1806年、高島おひさ)を多く描き、東洲斎写楽役者絵相撲絵(1794年、中島和右衛門と中村批藤)を多く描き民衆に喜ばれました。葛飾北斎(富巌三十六景)安藤広重(東海道五十三次)風景版画を発表しました。

文学では十返舎一九(東海道中膝栗毛)、滝沢馬琴(南総里見八犬伝)が有名です。俳諧では、与謝蕪村、小林一茶が有名です。柄井川柳の川柳や、蜀山人の狂歌も盛んになりますが、中には政治を批判したり、支配者に皮肉を浴びせたりするものも少なくありませんでした。

このころは、人形浄瑠璃より歌舞伎が盛んになって、18世紀後半から全盛期となり、19世紀初めには鶴屋南北の「東海道四谷怪談」が人気がありました。